​明治40年卒
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​児玉琢四郎
(文化・医療)
 

「鯉城の夕」の作詞者。本人の回想録から引用すると「当時学生の間に歌われていた歌は主に一高寮歌と海軍の”守るも攻めるも”というようなものであったが、丁度大阪あたりへ修学旅行の前に若い集団的精神というか、団体的感激というか、そういうようなものを拙作して仲間に示したところ、これは面白いと早速・一高寮歌の節で皆で始めたような次第です。たまたま晩春の時節であったために歌の文句も花が散るとか春が去るとかいうふうに終始したし、また、やたら”健児”という言葉が出てくるのも、当時は何事もあんな風に”健児”が出ねば気が済まぬほど一種の陶酔気分に陥っていたのです。これは一つには時代が日露戦争後の国軍興隆期で、青少年の間に土井晩翠等の男性的詩歌が愛誦された時節であり『鯉城の夕』の肩を張り上げた姿勢が当時の若い者のポーズだったのでしょうとあるが「寄宿舎に居て伊藤銀月、大町佳月らを

尊敬していた文豪家」とは同級生の児玉評。

​東大医学部卒の医学博士で専門は消化器外科。水戸赤十字病院初代院長を務めた。

 
(教育)
坂村徹

植物細胞学・生理学者,理学博士,文化功労者。北海道大学農学部に進み、植物細胞学の分野では小麦属の染色体を研究し初めて正確な数を決定し、続いて種間雑種を作ることに成功。植物生理学の分野ではカビ類の生理の研究で微量重金属、特にモリブデンの作用を明らかにした。これによって生物を利用した微量重金属の検出法を開発した。昭和16年、「植物生理学」を刊行。戦後も長く読み継がれ学生必読の書となる。昭和27年退官後北海道大学名誉教授。昭和39年学士院会員、昭和51年文化功労者の栄誉を受ける。

​1980年(昭和55年)没

 
登張信一郎
(文化)

ドイツ文学者。広島中学、山口高等中学(現山口高校)を経て東京帝国大学独文科を卒業。東京高等師範学校などで教壇に立つ。ニーチェ研究で広く知られたが、竹風と号し文人としても活動する。初の独和辞典を編纂。

​1955年(昭和30年)没