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黒川巌
(医療)
黒川巌

安佐群狩小川村の素封家生まれ。第一高等学校を経て東京帝大医科に入り1910年卒業、直ちに1年志願兵として歩兵第71連隊に入営、1年有半を軍務に服して帰京後は師事した東大・三浦内科に入り、副手、助手と研鑽を重ねること3年、招かれて九州の炭鉱王貝島宗家の医局に3年、その間貝島家所属の病院5か所の創設に関わるなど敏腕を発揮。1920年九州大学大学院に入って学位論文の作成に没頭、1922年末医学博士号を取得している。1923年10月関東大震災直後の広島市鷹野橋に内科専門の私立「中央病院」を新築開業、持ち前の学究肌と温容な人柄も相まって広陵医学界に新風を吹き込んだあたりの盛業ぶりについては、1932年創立(1940年解散)の広島ロータリークラブのチャーターメンバーとして第4代会長(1937年7月~1938年6月)に選ばれていること、さらに日本の敗戦を挟んで1949年8月復活した広島​RCの初代会長として1952年6月まで3年務めたことでも明らかなところ。因みに「中央病院」は1945年4月「日本医療団広島県中央病院」(院長黒川巌)と改称したが原爆により病院消失、災害救助法により1945年10月宇品に救護所開設。1947年6月病院は復興したが、1948年4月日本医療団の解散によってその施設の移管を受けた「県立広島病院」(院長黒川巌)再発足に至る経緯はいささか複雑だ。晩年は広島ローンテニスクラブの会長に祭り上げられてテニスを楽しんだり、JOFKの婦人講座やロータリークラブの婦人会講演で女性間に人気を博していたようだ。

1958年(昭和33年9月)没

​鈴川貫一
(経済)
鈴川貫一

広島市段原町出身。京都帝国大学工科電気工学科卒業、島津公爵家電気事業主任技師を経て1912年、広島呉電力技師長、支配人、取締役、続いて広島電気取締役、技師長、支配人、常務取締役を経て副会長。この時代から社内外の事務をほとんど一人で切り回し、それこそ広島電気を背負って立っていた感があるなど、多年にわたって守屋義之社長を支え守屋社長勇退と同時に後任の社長になった。終戦時の中国配電(現中国電力)社長、広島商工会議所会頭。郷土アマチュアスポーツ興隆に貢献したとして第2回(昭和28年)中国スポーツ賞を受賞。

​1963年(昭和38年)没

南薫造
(文化・教育)

洋画家。明治40年、東京美術学校西洋画科卒業。同年、イギリスに留学。ボロー・ジョンソンに師事する。フランス、イタリア等をめぐり帰国後、明治43年第4回文展で「坐せる女」で3等賞、第5,7,9回文展で2等賞を受賞。そのほか、帝展、新文展、日展で活躍し、昭和7年から19年にかけて、東京美術学校の教授を務める。

​1950年(昭和25年)没

渡辺銕蔵
渡辺銕蔵
(教育・政治・経済)

明治43年、第一高等学校を経て東京帝国大学法科大学政治学科を首席で卒業。同年、文部省特派海外留学生として、イギリス,ドイツ,ベルギーに留学。大正2年、東京帝国大学法科大学助教授となる。同年、北里柴三郎の長女と結婚。大正5年、教授、翌年法学博士となる。大正8年、経済学部設立に携わり同教授に就任し、今日の経営学の一つの源流を形成した。昭和2年、東京商業会議所で書記長に就任、翌年同会議所専務理事、日本商工会議所の専務理事も兼務した。昭和11年、衆議院議員総選挙に当選、政務調査会副会長を務める。昭和13年~17年、全国無尽集会所(全国相互銀行協会)理事長、都市計画中央委員会委員、帝都復興審議会評議員、東京特別都市計画委員会委員、日本米穀会副会頭などのポストに就いた。昭和22年、東宝社長、昭和24年には東宝会長を歴任。そのほか日本体育専門学校(現日本体育大学)校長など、多数歴任。

1980年(昭和55年)没

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