昭和12年卒の人物
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小畑実
(スポーツ)
1936年(昭和11年)、広島一中が全国中等学校蹴球選手権大会で初優勝を果たした時の左インナー(FW)。戦前の慶応義塾大学体育会ソッカー部黄金時代の左インサイドとしても活躍、また、日本代表として1939年9月、日満華交換大会対満州国戦で先発(Cキャップ)出場した。1949年(昭和24年)東洋工業(現マツダ)へ入社し、同社蹴球部では山崎芳樹監督の下で中心選手として活躍し、同年には実業団チームとして初の日本選手権(現天皇杯)に出場した。1951年(昭和26年)、山崎の後を受けて監督に就任、早いダイレクトパスの交換という慶応のサッカースタイルを東洋工業に植え付けた。選手兼任監督として下村・銭村・樽谷・重松らを擁し、1954年(昭和29年)には実業団チームとして初めて天皇杯決勝に進出する。翌1955年には全日本実業団でも初の決勝に進出、田辺製薬に2-0と敗れたが、翌1956年には田辺製薬の7連覇を阻み初優勝、チームに初の全国タイトルをもたらした。1962年には国体でも初優勝を飾っている。同年9月から10月まで、指導者の資格取得のため長沼健、水野隆とともにドイツに留学。1964年(昭和39年)監督を下村に譲って総監督に就任するが、翌1965年(昭和40年)、日本サッカーリーグが始まると、初年度より1968年まで不滅のリーグ4連覇の金字塔を樹立するなど東洋工業の黄金時代を築いた。
1986年(昭和61年)5月1日没
久保道正
(経済)
広島市大手町生まれ。久保家は代々江洲屋の屋号で刀剣商を営んでいた。広島一中一年の時に手術ミスで左足が不自由になるが、そのため兵役を免れる。1945年8月6日、爆心地から約1.5kmの住吉町(結婚後の新居)で被爆、倒壊した家の下敷きになるも奇跡的に九死に一生を得る。電気の世の中になるのではないかという予感から、戦後の1946年1月、バラック建て3坪の店構えで実弟と「久保兄弟電気商会」を創業。リュックを背負って東京や大阪で商品を仕入れ、市内の闇市の電気屋に卸して回った。1947年5月、義弟を加えてラジオ部品類の卸売りを主とする「第一産業㈱」に改組。電機メーカーから「大量生産・大量販売の時代がくる」とのアドバイスを受け1957年、卸売業から家電総合小売業に転換し、全国に先駆けて家電製品の低価格販売に踏み切った。これに反発した小売業界の圧力により20社近いメーカーから出荷停止を受け公正取引委員会が乗り出す騒ぎとなったが、公取委の全面的な支持を得て解除となり、当時の新聞に”低物価政策の第一産業”などと書かれて大きな宣伝となった。1977年、店名を「ダイイチ」(後にデオデオ/エディオンに改称)に統一、低価格販売とアフターサービスの顧客第一主義を掲げ、家電製品の需要増加の波にも乗って急成長を遂げた。1979年広島商工会議所副会頭。1980年フランチャイズ方式によるチェーン展開を開始。1990年東京証券取引所第一部に上場。1992年会長に退き、長男允誉が代表取締役社長に就任した。なお創業40周年だった1987年には私財を拠出し「公益財団法人久保スポーツ振興基金」を設立している。
1992年(平成4年)6月28日没
津田一男
(社会)
神戸高商卒業。中学時代は攻守の内野手として鳴らしたが親の反対で野球を断念、戦後の復員以降は知人と乾物店を経営しながら、母校広島一中などで野球のコーチを務めたり、実業団野球チームの全広島に参加していたが、1948年に中国新聞社へ入社、運動部記者となり1949年秋の地元球団・広島カープ創設以降はカープの番記者として球団と密着し、1956年から地元のラジオ中国でカープ戦中継の解説者、1961年からは中国新聞社運動部長を務める傍ら、1972年からは『球心』と題したコラムを『中国新聞』紙上に連載。カープが初のセントラル・リーグ優勝を達成した1975年10月15日を最後に記者生活から離れ、翌11月に定年退職。その後は理事、取締役(事業局長兼任)を務めた。1981年の取締役事業局長退任後は顧問・中国新聞文化センター専務・中国新聞トラベルサービス社長を歴任した。
1984年(昭和59年)没
藤田一暁
(経済)
日本大学工学部建築学科卒業。伯父藤田一郎が1910年広島で創業した藤田組(旧フジタ)に入社したのが1943年、伯父亡き後を継いだ実父の定市(フジタ工業会長、広商議会頭)を補佐して監査役、取締役、副社長を経て1962年社長に就任。財界活動の傍ら私財を投じてドルフィンクラブを設立し、ミュンヘンオリンピック男子百メートル平泳ぎ金メダリストの田口信教選手を輩出するなどスポーツ選手育成にも力を注いだ。弟の藤田正明は元参議院議長、甥の藤田雄山は元広島県知事。
1991年(平成3年)没
頼實正弘
(教育)