​昭和13年卒の人物
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松井五郎
(社会)

旧制広島高等学校(文乙)-東京帝国大学法学部法律学科卒。昭和18年三菱重工神戸造船所に入社したが、2か月後に応召されて中国大陸の最前線で生死の境を彷徨する一方、経理部幹部候補生として南京経理学校での連日連夜、完全武装に軽機関銃を担いでの駆け足行軍も何とか落伍せず耐え抜くなどの試練を経て漢口で終戦、昭和21年復員時は25歳でポツダム少尉だった。弁護士の父親と二人の兄を原爆で失い三菱重工もすでに解雇になっていたため長兄の経営していた鋳物工場を再建、何とか軌道に乗せた昭和45年初め、小学校時代から仲の良かった戸田工業の戸田英夫社長に請われて上場会社の経営を引き受けるが、半年後に不治の病で戸田社長急逝のピンチも銀行の要請に応えて乗り切ったばかりか、新たな無公害化学合成法を開発して高性能・超微粒子磁性材料の多量生産に成功して昭和58年には日経の全国優良企業ランキング2位、東証一部に上場の快挙を達成するなど、昭和62年会長、平成8年相談役に至る見事なリリーフ役ぶりは”広島経済界に松井あり”を強く印象付けた。財界活動も、昭和51年広島県教育委員会教育委員長、同54年広島経済同友会代表幹事、同63年広島商工会議所副会頭、その間にはロータリークラブの地区ガバナー、表千家同門会広島県支部長等々幅広く活躍し、平成3年薫4等瑞宝章を受章している。第4代鯉城同窓会会長。

​1998年(平成10年)7月10日没

松原博臣
(社会)
 

東京医専(現東京医科大学)-新潟医大を経て順天堂大学病院、日赤に勤務、昭和26年帰郷してJR横川駅前に聖ヶ丘内科医院を開業。広島一中時代はテニスで中国地方のチャンピオンとして鳴らし、同じ内科医の妻歳枝さんとの結婚条件が「テニスからは手を引く」ことだったという逸話の持ち主だが、昭和29年長男の誕生をきっかけにのめり込んだのが8ミリの世界。当初は地域文化に貢献に貢献しようと神楽などに熱中したが、やがて被爆を象徴する原爆ドーム、その向かいにある広島市民球場に焦点を移し、アマチュア映像作家として昭和41年、神と人間とのかかわりを浮き彫りにした『宮島』がカンヌ国際アマ映画祭の銀賞、47年には被爆地の平和の心を問い詰めた『ヒロシマ』がパリ国際コンクール・ルポ部門の1位、また原爆をテーマにした第2弾の『太陽の消える時』が49年、再度カンヌ国際アマ映画祭の銀賞…と名声を確立。一方、野球界とのかかわりも古く、戦後、順天堂大に勤務していたころ、小西得郎監督と懇意になり、その関係で小鶴誠選手とも知り合った。帰郷後の28年には小鶴選手がカープに移籍、一緒に松竹から移った金山次郎、三村勲、片山博ら4選手の後援会を結成して励ました。さらに33年、医院の近くにカープの三篠寮ができると、夜中に同寮で急患がでれば往診し、定期健診も受け持った。医療費はすべて無料。それだけではない。選手に請われれば8ミリで打撃フォームなどを写し、スローモーションにして見せた。同年、仲間と設立した「広島エイト倶楽部」の初代会長として「松原さんは病院が一つ建つくらい8ミリにポケットマネーを使った」は語り草。そのクラブ会員との共同作業で作ったのが初優勝した50年の『栄光の赤ヘル』で、これはニコン・コンテスト特別賞。さらに54年には『やったぜ日本一』でキャノン・コンテスト特別賞に結実した。

2003年(平成15年)8月29日没

≪参考資料≫…中国新聞(セレクト)の2020年3月14日版6頁「われらカープ人」

吉野友己
(社会)
 

東京帝国大学文学部卒業。

読売テレビを経て広島テレビ放送社長。

​1996年(平成8年)没

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