昭和14年卒の人物
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金枡晴海
(社会)
早稲田大学卒業後、中国新聞社入社。
広島一中在学中、中国駅伝にて6区区間賞
受賞。
河内卓司
(スポーツ)
慶應義塾大学へ進み、遊撃手として活躍。プロ野球「毎日オリオンズ」「高橋ユニオンズ」所属。
2016年(平成28年)没
高橋進
(スポーツ)
東京高等師範学校(現・筑波大学)で体育運動学を専攻。陸上選手としては3000メートル障害で活躍し、現役選手として1936年から1960年まで25年の長きにわたり日本陸上界の第一線に君臨した。3000メートル障害で日本記録を7度更新、1947年から1955年までの日本選手権9連覇は日本選手権でのトラック種目最長連覇記録。1946年日本選手権を兼ねて行われた第1回国民体育大会(西京極)では、800メートル、1500メートルで優勝。アジア競技大会は3回連続出場し、1951年の第1回大会(ニューデリー)3000メートル障害優勝、1954年第2回大会(マニラ)でも同種目で優勝、1958年第3回大会(東京)では日本選手団主将を務めるなど輝かしい成績を残している。戦後は当初、地元の広島基町高校の教師をしながら、出身の佐伯体協のエースランナーとして中国駅伝(現・全国都道府県対抗男子駅伝)などで活躍。また広島チームの大黒柱として各地の駅伝レースでも多くの優勝をもたらし「駅伝王国広島」を印象付けた。1952年請われて八幡製鉄陸上部に移籍し、中国駅伝、全日本実業団対抗駅伝大会(現・ニューイヤー駅伝)、九州1周駅伝などで活躍し名ランナーとして知られたが、1960年引退、同チームの監督・指導者となり多くの名ランナーを育てチームの黄金期を築いた。1964年東京から1968年メキシコシティー、1972年ミュンヘン、1976年モントリオールまで4大会連続でコーチを務めた後、1992年バルセロナで再びコーチ、この間日本陸連強化委員、強化部長、オリンピック対策副委員長、終身コーチを務めたが、長距離走、マラソンの練習法を近代的に体系づけ、卓越した理論によって日本長距離界、特にマラソン界の日本のレベルアップに貢献した功績は大きい。
2001年(平成13年)没
(社会)
戸田英夫
早稲田大学工学部卒業。
戸田工業㈱社長
山上雅庸
(教育)
東京音楽学校卒業。
広島大名誉教授(音楽教育学)
2002年(平成14年)没