昭和14年卒の人物
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金枡晴海
(社会)
早稲田大学卒業後、中国新聞社入社。著書『広島スポーツ100年』。広島一中在学中、中国駅伝にて6区区間賞受賞。
2010年(平成22年)没
河内卓司
(スポーツ)
元プロ野球選手。慶應義塾大学へ進み、遊撃手として活躍した後、陸軍に召集された。戦後復員して慶應野球部に戻り、卒業後に入社した大洋漁業では、1947年の第20回都市対抗野球大会への初出場に貢献した。 1950年には入団した毎日オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)で全試合出場、リーグ最多打席・最多打数を記録。パ・リーグ初代王者、及び日本シリーズ制覇に貢献した。4番も打ち主将も務めたが、1954年発足した高橋ユニオンズへ移籍。1番打者として活躍し、1956年に引退。 その後、社会人野球のリッカーミシンの監督などを務めた。
2016年没(平成28年)
高橋進
(スポーツ)
東京高等師範学校(現・筑波大学)で体育運動学を専攻。陸上選手としては3000メートル障害で活躍し、日本記録を7度更新。1947年から1955年まで、日本選手権でのトラック種目最長連覇記録となる9連覇。1946年日本選手権を兼ねた第1回国民体育大会(西京極)では、800メートル、1500メートルで優勝。アジア競技大会は3回連続出場し、1951年の第1回大会(ニューデリー)と1954年第2回大会(マニラ)で3000メートル障害優勝、1958年第3回大会(東京)では日本選手団主将を務めた。
戦後は当初、地元の広島基町高校の教師をしながら、出身の佐伯体協のエースランナーとして中国駅伝(現・全国都道府県対抗男子駅伝)などで活躍。「駅伝王国広島」の大黒柱だった。1952年に請われて八幡製鉄陸上部に移籍し、中国駅伝、全日本実業団対抗駅伝大会(現・ニューイヤー駅伝)、九州1周駅伝などで活躍。1960年に引退後は監督・指導者となり多くの名ランナーを育てた。
五輪は1964年東京から1968年メキシコシティー、1972年ミュンヘン、1976年モントリオールまで4大会連続でコーチを務めた後、1992年バルセロナで再びコーチ。この間日本陸連強化委員、強化部長、オリンピック対策副委員長、終身コーチを務めたが、長距離走、マラソンの練習法を近代的に体系づけ、卓越した理論で日本長距離界、特にマラソン界のレベルアップに貢献した。
2001年(平成13年)没
(社会)
戸田英夫
早稲田大学工学部卒業。
戸田工業㈱社長
山上雅庸
(教育)
東京音楽学校卒業。
広島大名誉教授(音楽教育学)
2002年(平成14年)没