​昭和15年卒の人物
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西川一平

(社会)

 

ひ弱な体質が災いして一中~広高と続いた野球部生活に無理が生じ、学業半ばで胸を患い療養の身となったが、回復する暇もなく昭和20年には被爆、大火傷を負って約一年、生死の境を彷徨いながら九死に一生を得た一平青年を待ち受けていたのは、中国戦線における長兄戦死の訃報だった。若くして美術に憧れ、絵筆と共に生きる夢を抱きながら、家業西川ゴム工業所の再興ー会社設立と同時に26歳で社長(厳父文二氏は会長)を受けざるを得なかったのも運命というものだろう。ただ製品といってもスポンジ草履やバスマット、垢すり程度で、従業員規模も3~40人の時代である。社長業に愛想をつかして内緒で東京での美術展に油絵を出品することもあったらしい。それも一見、山下清張りの印象を与える独特な画風が認められて事業家西川はそっちのけ、彼自身も、また周囲も画家としての西川を意識し始めていた矢先に朝鮮動乱が勃発、工業用スポンジゴム製品の需要が高まるにつれ、事業家西川の技術革新意欲もまた大きな変身を遂げるのである。

​絵を描き心を色彩で表現することによって精神的な渇きを潤し、事業家としての感覚をリフレッシュできるとする西川は「絵というものは描いた人だけにしかない世界を100%表現したもの。だから、類似でなく典型的なものでないと意味がない」と言い、事業でもまた「物理的に原価が決まるような事業ではこれからは生き残れない。抽象的な付加価値の出せる技術や商品を手掛けることだ」と社員を督励したそうだ。天然ゴム、合成ゴム、合成樹脂などの弾性体素材をスポンジ状に発砲させる技術では業界屈指の折り紙付きの西川ゴム工業(株)はこうした付加価値を求めて今日も飛躍への段階を着実に歩んでいる。

渡辺孝士

(軍人)

 

1944年早稲田大学卒業。​海軍少尉。戦後、源田実と共に皇統護持作戦計画に加わった24名の一人。​早稲田大学在学中水泳部に所属。「フジヤマのトビウオ」を支えた日本水上の影の功労者。

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