​昭和16年卒の人物
萩原幸雄​(はぎわらゆきお)
吉田治平​(よしだじへい)
萩原幸雄

(政治)

1945年東京帝国大学法学部卒。1948年内務省に入り静岡県調査、税務各課長、総理府事務官、広島県税務、財政各課長、同総務部長、同副知事などを経て1972年第33回衆議院議員総選挙において広島1区から自由民主党公認で立候補し初当選、次の1976年第34回衆議院議員総選挙でも再選した。党内では地方行政、交通の各副部会長、商工局次長などを務めた。

​1978年(昭和53年)没

​吉田治平

(政治)

1945年中央大学予科(夜間)に通う傍ら外務省電信課で働きながら経済学部に進んだ1943年(昭和18年)10月、学徒出陣となり、佐賀の陸軍電信第二連隊に配属、有線放送の架設で九州各地を回る。部隊の命を受け神奈川に向かう途中の1945年8月15日未明には被爆直後の廃墟の広島に入り、家族の消息(母と妹の4人を失う)を確認もしている。終戦による「ポツダム軍曹」で除隊後は残された弟妹4人を養うため翌9月、戦前に亡き父が勤めていた中国新聞に入社したが、入試試験は無く父を知っている人らが認めてくれたという逸話も。記者活動とともに社内民主化を求める労働運動にのめりこみ、広島県労働組合協議会の事務局長を務めた。1948年の越年資金闘争では無期限ストを打ち新聞発行を止めたり、大量人員整理を巡って占領軍の中国地方軍政部が介入した1949年の「日鋼争議」も支援した。だが、出向した「夕刊ひろしま」で指名解雇される。県地方労働委員会は復職を命じたが履行はされず、緊急失業対策法で広島でも始まった日雇い労働に転じた。「100m道路」と呼ばれた今の平和大通りで自身のつるはしを握りもっこを担いだが日給のピンハネという不正の横行を見かねて1950年に広島自由労組を結成、同時に書記長に就いた。1951年の広島国体を成功させた失対労働では「餅代」を求める約千人を率いて市庁舎で座り込み、拘置されたが「吉田を返せ!」とどん底にあっても助け合おうとする仲間のためにも運動家を続けた。全日本自由労働組合が結成された1953年10月には東京に出て中央本部の書記長を務めたが1年で切り上げ、1955年広島市議に無所属で初当選、4期務めるなど終始失対の待遇改善に挺身、さらに老いた組合員らが公園の清掃に当たる全日本建設交通一般労組広島支部の委員長を2013年まで無給で担っている。死去を伝える中国新聞も「復興を支えた労働闘士」の大見出しでその生涯に哀悼の賛辞を載せている。

​2018年(平成30年)没

松井義武

(軍人)

 

長崎高商在学中の昭和18年12月召集されて海軍に入り、第一期飛行専修予備生徒として僅か一年の速成教育で任官、同20年3月1日、神風特別攻撃隊第一千早隊に編入され、本土決戦に備えて特攻機20機をもって四国松山基地で待機中、終戦を迎えた‘’特攻生き残り‘’の一人。自筆の「戦中派のくりごと」に次の短歌一首、俳句一句を書き添えている。 

・あの空の果てに散らんと決めていし

 生かされて暦ひとつめくりぬ
・永らえて なになしえしや 法師蝉
復員後は広島県農協連合会に就職して県内各地を回り、定年後は出身地の上下町(現府中
市)に戻って社会教育委員、人権擁護委員などを歴任、また地域医療を守るため北市民病
院存続を訴える運動の先頭に立つなど地域の世話役として活躍した。因みに鯉城同窓会の
会員有志が毎月集う二木会にも、高齢を押して県東部の上下町から30年以上通い続け、平成30年の総会で会長表彰を受けている。令和2年1月15日没。

岸保勘三郎

(社会)

 

旧制広島高校を経て1945年東京大学理学部地球物理学科卒。もともと理論家の学究肌だが、第二次大戦後の学問の再建期と気象学・天気予報の革新に遭遇し、さらに国際化、ビッグサイエンス化という時代の流れの中にあって、時代が求める役割を精力的に担った功績は大きく、日本の「数値天気予報の父」として知られている。公益財団法人日本気象学会の理事長も4期8年(1976年~84年)務めた。主観的、質的予報から客観的、量的予報への移行という黎明記の中心人物として数値予報の導入と発展に貢献の一方、大学と気象庁の予報現場との連携、後進の育成にも尽力したが、1952年28歳の時プリンストン高等研究所で行われていた数値天気予報開発のプロジェクトに招かれ電子計算機に遭遇したことで運命が一変、1954年1月帰国と同時に数値予報グループの実質的リーダーとして活動の傍ら、気象庁に電子計算機の導入を働きかけ、1957年に計算機IBM704の導入が決まると自らも東大から気象研究所へ、さらに1959年4月の数値予報開始とともに気象庁予報部電子計算室に班長として移るといった献身的な働きもあって1959年、日本の気象庁は1954年のスエーデン(北大西洋領域のみ)、1955年アメリカ(北半球)に次いで世界で3番目に数値天気予報を開始している。1970年教授として東大に戻り、定年を迎える1984年まで気象研究室での後輩の指導の傍ら、世界全体のGARPを指導するICSU-WMOのJOCのメンバーとなり、世界と日本をつなぐ役割も果たしている。GARPは1960年代に芽を出した数値天気予報と人工衛星観測を結び付けて、全地球の気象を四六時中監視しつつ同時にそれをコンピューターのなかに再現し予報を行おうという、現在我々が手にしているものを当時のリーダーたちが構想し、その実現のために立てた計画である。

​2011年(平成23年)9月19日没

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