賀屋興宣
(政治)
第一高等学校を経て、東京帝国大学を卒業。大蔵省に入省。主計官,書記官,主計局長,次官と大蔵省主流を累進。1927年ジュネーブ軍縮会議に、1930年ロンドン軍縮会議に全権の随員として列席。1937年第1次近衛内閣の大蔵大臣に就任。1938年貴族院勅選議員、翌年北支那開発㈱総裁となる。1941年10月東条内閣の大蔵大臣に就任。敗戦直前の1945年8月11日、戦争責任を感じて正三位勲一等と国務大臣礼遇を返上し、続いて大蔵省顧問,貴族院議員も辞した。敗戦後、連合軍の占領下にあって約10年間戦争犯罪人として苦難の道を歩んだ。1957年自由民主党に入党、岸首相の経済顧問となって公人生活に復帰。1958年東京3区から衆議院議員選挙に立候補し当選、以来1969年まで連続5回当選。その間1963年第2次池田内閣、第3次池田内閣の法務大臣に就任。
1977年(昭和52年)没
瀬越憲作
(文化)
囲碁棋士。内相望月圭介に伴われ上京。方円社に入り囲碁修行に志す。兵役のため帰郷に際し、鈴木為次郎三段と6局を闘い4勝2敗の成績を収め三段位を得て飛付(とびつき)三段として当時話題になった。1921年六段に進む。鈴木為次郎と稗聖会を創立し、囲碁の対局に時間制を初めて採用した。1924年日本棋院創立に参画、第二次大戦後は日本棋院理事長として再建に尽くした。1955年現役を引退、名誉九段に推される。紫綬褒章、勲二等瑞宝賞を受賞。世界に碁を広めるため、中国に3回渡航し、呉清源の来日とその大成に協力した。古棋譜を発行、「御城碁譜」全10巻、「明治碁譜」の出版は高く評価されている。現役引退後は後進育成に尽くし橋本宇太郎、呉清源、伊予本桃市、久井敬史らは門下生。
1972年(昭和47年)没
田中純
(文化)
小説家・劇作家。関西学院大学神学科を経て早稲田大学英文学科を卒業。春陽堂に入り「新小説」編集主任となる。文芸評論,劇評を「新小説」「新潮」などに書く。1918年「新小説」を退き、ツルゲーネフなどの翻訳をしつつ、久米正雄,里見弴,吉井勇らと知り合い、小説,戯曲などを書く。1919年吉井勇と共に国民文芸界を結成、演劇復興運動を起こす。同年、吉井,里見,久米と共に雑誌「人間」を創刊。代表作「妻」「平太郎の親」「純潔」「闇に哭く」、第二次大戦後は「文壇恋愛史」「作家の横顔」「女のたたかい」など多数。
1966年(昭和41年)没
宮原幸三郎
(政治)
第一高等学校を経て1916年東京帝国大学法科大学政治学科を卒業、同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り、長野県下高井郡長、和歌山県伊都郡長、熊本県理事官、帝都復興院事務官兼書記官、内務省復興局書記官、兵庫県理事官などを歴任し1928年に退官。1935年呉市助役に就任。その後、呉市会議員を務めた。1946年4月の衆議院議員総選挙で広島県全県区から日本自由党公認で立候補したが落選。翌1947年4月の総選挙で広島県第2区から立候補したが落選。1949年1月の総選挙には民主自由党公認で出馬し初当選した。しかし、次の総選挙では落選。1953年4月の総選挙に自由党公認で出馬して再選され、衆議院議員として通算2期在任した。この間、衆議院両院法規委員長、自由党総務など務め、旧軍港市転換促進議員連盟委員長として同法の制定に尽力した。その後、1955年2月の総選挙では落選した。
1966年(昭和41年)9月30日没